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kirakira*melancholin

キラキラメランコリン

ブランド名:
kirakira*melancholin - キラキラメランコリン

【思春期に感じた‘キラキラ’と‘メランコリー’をあなたへ】 北海道の風景から影響を受けて作品作りをしています。どこか切なくて懐かしい思春期の記憶をアクセサリーにとじこめました。

作品

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ブログ

全然、HP更新してなくてごめんなさい… なんやかんやで2017年が終わろうとしています。今年は何と言っても、菫ちゃんと2人展「Northtalgia」を開催できたことが、何よりも幸せでした。北海道をアクセサリーと絵で表現するという取り組みは、なかなかないことだと自負しております。地方の魅力発信にはたくさんやり方がきっとあって、地元でしっかり基盤を作る人がいれば、新しい取り組みを始める人もいるし、外から地元を変えていく人もいるでしょう。やり方が違っても、北海道が好きで、大切に思ってくれるならそれが一番だなぁと思うし、方法はたくさんあった方がいいのよね。目的が一緒なら。やり方が違うとラッキーだよね。自分ではできないことを誰かがやってくれる。いろんな角度から「みんな」で動かせる。わたしのできることはほんの少ししかない。わたしが作るアクセサリーで北海道の良さを伝えたいなんて、身の程を知れと言われるのかも知れません。大丈夫ですよ、身の程はわかっています。だからその身の丈にあった、自分の責任の取れる範囲で、そのほんの少しを大切に、わたしがいいと思ったものを作り続けていけたらと思います。その中で誰かが何かを感じてくれたり北海道を好きになってくれたら、とっても嬉しいです。もちろん北海道イメージアクセサリーの他にも可愛いと思ったものはこれからも作っていくよ!あと、今年はプライベートで東北に行ったのも印象的でした。宮沢賢治の、地元愛と自分の興味を消化して作品に落とし込んでいるところ、本当に感銘を受けました。宮沢賢治は農学校で先生をしていた際修学旅行の引率として北海道にも来ていたそうだ。室蘭やオホーツクを題材にした歌も多々ある。一番印象に残ったのは、柳原昌悦宛に残した手紙の一節。「世界がぜんたい幸福にならないうちは 個人の幸福はありえない」 まずお前が幸せになれ、と多くの人に言われてきた。それは有難いことだし、真実だと思う。けれど、宮沢賢治の言葉を平日のほとんど人がいない館内でぽつんと1人見たわたしは、なんだか、ドンと胸を、つかれたようだった。気仙沼に行ったことも書きたかったけど、長くなってしまいそうなので、またの機会に。(ですます調とごちゃごちゃでごめんなさいね)来年は5月のデザフェスしかまだ決まってませんが、色々楽しいことができたらなと思っています。それではまた✨ [...]
2017年12月19日(火)
Source kirakira*melancholin
女に生まれてよかったと思うことは、女の子に、気軽に、「大好き」と言えること。そして、社交辞令であっても「わたしも」と返してもらえること。私が男だったらそうはいかないだろう。昔付き合っていた人に「君は恋愛はすぐ壊れるもので、友情は続くものを思っているけれど、それは違うと思う。」と言われた。そんなことは百も承知だったけれど、彼はあの時どういう意味でそんなこと言ったのかなぁとぼんやり考える。彼とは友達という関係に戻れたわけではないが、もし戻れていたとしても、「大好き」とはもう二度と言えなかっただろう。だから友達のまま「大好き」と言える女の友情は、私にとって恋愛よりも奥深く、且つあけすけで、とても大切なものなのだ。きっと「来るもの拒まず、去る者追わず」が大人のコミュニケーションにおいて基本的なルール。そうはわかっていても、女の子たちは猫のようにいろんな世界を見に行ってしまう。犬のように鎖につないでおくことはできない。そのことが時々とても寂しい。だからずっと家を空けてあたためて待っていたけれど、気づいたら私も女。待つのはやめて、自由に幸せに過ごそうと思うの。*わたしは、どんどんたくましくなって、今までとまるで違う価値観を、最近立て続けに手に入れた。というよりは、たくさん集めたピースがはまったって感じかな。これまで培ってきたものをきちんと小脇に抱えたまま、折り返し。バージョンアップの30代を過ごします。幸せそうな、自分、じゃなくて本当に幸せな自分を取り戻す。わたしは、わたしのライトハウスキーパーになる。 [...]
2017年4月29日(土)
Source kirakira*melancholin
「山田孝之のカンヌ映画祭」というドラマをを見ている。パルムドールを2回受賞した脚本家の人が、「ハリウッドが嫌いなんですよ、カンヌの人たちは。憎悪してる。だから不親切に作る。説明したり、お客さんにサービスをしない。お客さんにサービスして整理しちゃうとエンターテイメント。」と言っていて。いろんなことを思い出した。大学の時、映画を作るゼミに入っていた。先生は映画界では割とすごい人だったらしいのだけど、わたしは何度見ても作品の意味がわからなかった。ゼミの仲間や有名な監督さんが、先生の作品を褒めれば褒めるほど、どんどんどんどん孤独になった。バカにされてる気がした。でも、わからないものはわからない。わからないということは不安を呼ぶ。説明してくれたらわかったのかな。そうするとアート的映画に意味はなくなるのかな。映画監督はきっと芸術家なんだなと思う。そのせいなのか今もずっとアートと呼ばれるものにコンプレックスがある。そのくせ、わかりやすいだけのものは面白くないと思っていた。わたしの持つ感情も経験した事象も、一言で言えるほど簡単なわけない。簡単だったらこんなに苦しまないはずだもの。「普通の人」に説明すると、「ごめwちょっとわからないww」って言われた。それでも簡略化すると、伝えたいこととはズレていくからできない、というかしたくない。ディテールにこだわって、説明しようと言葉が増えていく。反比例して人は去っていく。孤独だった。いつも。どこにも入れない気がした。自分を特別視するなとも何度も言われたけど、たくさんの人の中で孤独なら、1人でいて寂しい方がよっぽどマシだと思った。テレビの中で先程の脚本家が、こう続ける。「みんな大喜利が好きなんですよ、日本は。みんなが同じことを知ってて、同じ経験をしてて、同じ価値観を共有してるから小さな価値観の差が楽しいっていうゲームですよね。」もしみんながそうならば、わたしもそうだよ。だからその「みんな」の中にいたい。内輪ウケでいい。共有していたい。安心したい。不親切で、わがままで、世界中の誰にも必要とされなくても生まれるアート。わかりやすく、かわいく、みんなの笑顔をお金を生むエンターテイメント。どちらでもない「みんな」へ。ここにわたしもいるよ、と叫んでる。 [...]
2017年1月25日(水)
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今日は診察日だった。「作ることを、思い切って休むことにしたんです。」と切り出した私に、いつものように先生は優しくうなずいてくれた。「まぁ、周りの人たちは私は浮き沈みが激しいってことをわかってくれているとは思いますが、正直『またか』って思われる気もしています。」と自嘲気味に笑うと、先生も少し笑って、いやいや、と首を振った。「浮き沈みのない人間など、いないよ。」先生は後ろで記録係をしていた看護師さんに声をかけて雑紙をもらうと、左から右に伸びる矢印を2本縦に並べて書いた。上の矢印には大きな丘と窪地が一つずつ、下の矢印には忙しなく上下する幅の狭い波形を付け足す。「このように年単位で緩やかに上昇と下降を繰り返す人間もいれば、細かく細かく刻みながら進む人間もいる。その波の中で、人はみんな生きている。だから、それは普通ですよ。大丈夫です。」「そうですよね。でもどんどん置いて行かれる気がして・・」自信がない時ほど、笑ってしまう癖は相変わらず抜けていない。言葉に潜む不安とは裏腹に、へへへと苦笑いしていた。そんな私に、しっかりとした、しかし柔らかい声で先生は言った。「うん。置いて行ってもらいなさい。」そう言うと、先ほど書いた二本の波形付き矢印の下に、楕円を描く。「トラック競技だとします。ね?これ。よーいどんで走ってきて、あなたがここで疲れて休んだとします。そしたら置いて行ってもらいましょう。でも実際は、」私が仮に立ち止まったとする地点から、ペンはトラックをぐるりと回って戻ってきた。「ほら後ろからくるでしょ。置いて行かれてないよね。また向こうからやってきますよ。」「じゃあすーっと知らん顔してそこに混ざっちゃえば、周回遅れだってばれませんかね?」「ばれてもいいじゃない。周回遅れでいいの。」自分の浅ましさが漏れ出てしまって私は赤面した。先生は気づいていたのかいないのかわからないけれど、先ほどよりもより確信めいた口調で言い切った。「合流するまで呼吸を整えて足を休めて、みんながまたやってきたら走り出せばいい。」(堂々と)という言葉が透けて見えた。それは光のようだった。ずっとできなくて、憧れているのに避け続けてきた片鱗を見た気がして、ゆっくり反芻する。偽る必要はない。隠すことない。わたしは周回遅れ。これはまぎれもない事実。けれども、それを恥じることもない。恥じることは、ないんだ。わたしはいつも、わたしのほんとうがわからない。ほんとうなんてないと人は言う。ぜんぶほんとうだとも思う。生きてることに意味なんかない。それは真実だとも思う。ただ、少しだけきょう、いいでもない、わるいでもない、かっこ悪くも、かっこよくもあるわたしを、先生の言葉の中に見た。恥じる場所を間違えて、きっと生きてきたこと。これからでも、変えられるかもしれないこと。きょうも、病院に行ってよかったと思った。みんなはすごいと思う。作家仲間だけじゃない。友人も夫も知人も知らない人も。日常生活の中で、自分にはできないことが多い。比べたり、責めてしまうことも、またあると思う。だけど、走っている途中だから。死ぬまでずっと、走っている途中。何周遅れでも、またスタートラインに立つぞ。何年経っても、あの時やってよかったと思えるものを作るために。地下歩行空間に、北海道の市町村をPRする写真が貼ってあった。圧巻だったなぁ。わたしの故郷は、きれいだなぁと思った。(北海道全部ってことね)見せたい景色があった。一緒に見たい風景があった。共に行きたい場所がある。いままでと、これから。どちらもたいせつだから、わたしはそれを作品にできるようにいまはスタートラインの近くで、座っています。 [...]
2016年12月17日(土)
Source kirakira*melancholin

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